【寒シジミ】



こんばんは。


今日は小寒で寒の入り。
これまでも寒かったのですが、また一段と寒くなってきました。
今日から20日の大寒あたりまで、1年中で一番寒い時季が続きます。


しかしこういう寒い日には「温かいシジミの味噌汁が美味しいだろうな」
と私は思ってしまいます。


私の郷里の岡山県津山市に近い島根県の、その東北部に位置する宍道湖は、
淡水と海水が混じりあういわゆる汽水湖で、魚介類が豊富に獲れます。
「スズキ・モロゲエビ・ウナギ・アマサギ・シラウオ・コイ・シジミ」が「宍道湖の七珍」
として広く知られていますが、中でも宍道湖のシジミは漁獲高が全国一。
粒が大きく肉厚で松江を代表する味覚の1つです。
シジミは安価で、またどこでも手に入る美味で栄養豊富な食材であり、
かつまた肝機能回復の特効薬でもありますので、日本国中どこに行っても、
また季節を問わず食卓にシジミ汁は欠かせませんが、
特に今の季節のシジミは「寒シジミ」と呼ばれて味が良いとされています。


そこで今日はこの「寒シジミ」について述べてみます。


私は大学卒業と同時に女房(以下「彼女」と書きます)と婚約し、
日本鋼管(今のJFEスチール)という鉄鋼会社に就職して広島県福山市にあった製鉄所に
配属されました。


いつの時代でもまたどんな組織でも、就職したばかりの新人は仕事を覚えるのに必死ですが、
私もまた給料に見合った仕事が早く出来るようになりたいと、上司や先輩の厳しい愛(?)のムチを受けながら、
朝晩無我夢中で与えられた仕事に取り組みました。


福山市は人口40万とはいっても地方都市ですからまったくの車社会で、
独身寮と製鉄所の間の出退勤はマイカーでしたから、バスや電車の時刻を気にする必要はなく、
製鉄所では毎日夜遅くまで残って仕事をし、残った仕事は独身寮に持ち帰ってから
またやるという状態で、毎週、月曜日から土曜日(当時、土曜日は隔週休日でした)に
かけては、出退勤や飲み会以外の時間は全て仕事漬けという毎日でした。


そして毎週日曜日には、岡山県津山市で家庭教師や塾の講師をしていた彼女が鉄道と
バスを乗り継いで片道4時間かかる福山まで毎週やってきてくれましたので、福山市近辺でデート。
そうして私の新入社員時代が慌しく過ぎていきましたが、ほぼ3年経った1月、
私は突然全身疲労と倦怠感に襲われました。


私は3歳の時に急性腎炎にかかった以外は病気やケガをした記憶がないほどの
健康優良児でしたし、それまでずっと徹夜に継ぐ徹夜が続いていましたので、
「仕事でちょっと疲れたのかな」程度に思ったのですが、
周囲の方が余りに「顔色が良くないので早く帰って休んだ方がいい」
と言うものですから、早退して念のため製鉄所に隣接している企業立病院を受診しました。


診察を受けたDrの診立ては「風邪」とのことでしたので、
そのまま独身寮に帰って、もらった薬を飲んで自室のベッドで寝ていたのですが、
疲労感や倦怠感は収まらず吐き気までしてきた上に何故か異常に身体がしんどい。
熱も出て、見上げている天井がグルグル回りだす。
トイレに行こうとベッドから立ち上がっても身体はフラフラで、
オシッコの色はチョコレート色(あれを血の小便というのでしょう)でした。


それでも当時医学的知識ゼロだった私は、
「風邪」と判断したDrの診断をオカシイとも思わず、
高熱にうなされながらそのまま自室で寝ていました。
翌朝になっても症状はまったく変わらず、
ベッドの上で「ウンウン」唸りながら寝ていましたが、
そこに現われたのが、たまたま津山から福山にドライブでやってきて
息子の独身寮を訪ねてきた私の両親でした。


まったく応答がないのを心配して5階にある息子の部屋まで上がってきた両親は、
そこで可愛い息子がウンウン言いながら寝ているのを発見。
意識朦朧状態の私からかろうじて経緯を聞きだすと、
親父は「こんな症状が風邪であるはずはない。
その診断はオカシイから他のDrに診てもらった方がいい」と言って
私をそのまま車に載せて津山まで連れ帰り、親父の掛かりつけのDrに診せましたが、
そのDrの診断結果は「明らかな急性肝炎でそれもかなり深刻化している。
急遽入院が必要で、治るまで3ヶ月はかかる」というものでした。


全く何の準備もなく入院する羽目になり、また3ヶ月という
長期間入院しなければならないということになりましたので、
「津山で入院するよりは福山で製鉄所近くにある病院に入院した方が会社や仕事を考えた場合、
何かと便利だろう」と考えて、また親父の車で福山までユーターン。
私の症状を最初「風邪」と診断したDrのいる企業立病院に入院しました。


その時のDrも出てこられて
「豊岡さん。風邪の症状と急性肝炎の初期症状はよく似ているんですよ」
といい訳めいたことを言われましたが、私の方はとにかくしんどくて「そうですか」
と応えるのがやっとでした。


入院後1ヶ月間は絶対安静で点滴だけのベッドに縛り付けられた状態でしたが、
残り2ヶ月は病院食を摂りながらの普通の入院生活でした。


入院生活といえば、この病院では毎週月曜日になると、
院長先生による総回診があり、この院長先生も津山出身で以前から私と親しい方でしたので、
回診の時にはいつも私と話をしていかれるのが常でした。


その中に「豊岡さん。内科系の疾患にかかる原因の半分は病原菌に感染するなどの
直接的な要因によるものですけど、あとの半分はその人の生活習慣、
特にメンタルな部分によるもののです。
聞いたところ、豊岡さんは毎日夜遅くまで会社で仕事をされ、
寮に帰ってからも仕事をされているとか。
1日24時間仕事のことばかりでは精神の休まる時がないでしょう。
そういう生活をこれからもずっと続けていたら、今度の急性肝炎は治っても、
次にまた他の内科系疾患にかかってしまいます。
悪いことは言わないから、また1日のうち少しの時間でいいから、趣味とか遊びとか、
仕事から切り離された時間をもちなさい。
それが最善の内科系疾患予防対策ですよ」というお話しがあり、
私も「なるほど」と思いましたので、退院後は「どんなに遅く、例え徹夜になっても仕事は会社で行い、
自宅では仕事は一切せず他のことをする」ことを自分のポリシーにしました。


そのお蔭でしょうか。
それ以来大病にかかったことはありません。


ところで、3ヶ月間の入院期間中、毎週日曜日になると定期的に彼女が津山からやってきて、
身動き出来ない私に代わって身体を拭いたり、汚れ物を持ち帰って洗濯してくれたり、
話し相手になったりしてくれ、退屈で不自由な入院生活の中にあって、
私にとってはそれがなによりの、そして唯一の慰めでした。


彼女はいつも真心を込めて、そして嬉々として細々と私の世話を焼き、
その様子はまるで病気の夫に対する妻の献身的なそれのようでした。


勿論、3年前の3月に彼女と婚約した時に交わした
「二人の気持ちがこのまま変わらなかったら3年後に結婚しよう」という約束は覚えていました。
また彼女が痛いほど私との結婚を待ち望んでいることも、
彼女は口に出して何も言いませんでしたが、よく分かっていました。
その約束の3年間が経とうとしているのに、
しかし、私は何故か彼女との結婚に踏み切る気持ちになれないでいました。


独身寮に居ましたので、独身生活を続けることの生活上の不便を全く感じなかったこと、
入社して3年経って仕事にも慣れ余裕も出てきたので、
そのまま気ままな独身生活を謳歌して仕事に打ち込み遊びも楽しみたいという気持ちがあったこと、
それになにより、彼女が自分にとって大切な女性だという確信は動かないものの、
まだ自分の心の中でかつて付き合い別れた人への未練を引きずっていて、
本当にこのまま彼女と結婚してしまっていいのかと迷うマリッジブルー的な心理に陥っていたことが
その理由でした。


この煮え切らない私の様子に業を煮やしたのが、昔から彼女のことを知っていて、
また時々病院に見舞いに来て彼女の痛々しいほどの私への献身ぶりを見聞きしていた私の親父でした。


ある日、病院の朝食にシジミの味噌汁が付きました。


シジミが肝臓病の特効薬であることを私は知っていましたし、
私の好物でしたので私は喜んでそれを味わいましたが、
その日の午後、見舞いにやってきた親父は、私を前にして以下のような話しをしました。


「今朝、朝食にシジミが出たと思うが、あれは彼女が自分で採って病院に持ってきて、
院長先生に特にお願いしてお前の朝食に出してもらったものだ。
お前が肝炎で倒れた時に彼女のお母さんが彼女に言ったそうだ。
『彼(私のことです)が病気になったのは半分はお前に原因がある。
彼は毎日仕事でいそがしく過労状態だから
せめて日曜日くらいはゆっくりと身体を休めて疲労から回復してもらわないといけないのに、
お前がせがんでその日曜日にデートを重ねたものだから、
彼の疲労が蓄積してついに病気になってしまった。
だから彼が病気になった原因の半分は過労かもしれないけど、
後の半分は貴女なのよ』と。それを聞いた彼女はビックリして
『では私はどうしたらいいでしょう』とお母さんに尋ねたそうだ。
それに対してお母さんは
『まず毎週1回は病院に見舞いに行って彼の看病と身の回りの世話を一緒懸命にしなさい。
それと肝臓病にはシジミがいいというからシジミを持っていって彼に食べてもらいなさい。
その場合買って持って行くのでは心がこもらない。
自分でシジミを採って持っていって食べてもらったらきっと彼の病気は良くなる。
だからそうしなさい。私も手伝うから』
と答えられ、彼女とお母さんは冬の寒風吹きすさぶ中、近くの小川や用水路に裸足で入り、
素手で笊を持って底を浚い、一生懸命シジミを採ったそうだ。


コンクリートの用水路や農薬が普及した今は昔と違ってシジミはおらず、
いても死んだ貝だったりしてなかなかシジミは採れなかったそうだが、
それでも二人してかろうじて一握りのシジミを集めてそれを彼女が昨日病院に持参した。
それがお前が今朝食べたシジミ汁のシジミだ。
彼女はお前のことが、小学校の同級生だった昔から好きで、
お前のことだけをこれまで見つめてきた。
だから彼女は3年前にお前からプロポーズされた時には死ぬほど喜んだのだ。
それ以来彼女はお前と結婚する日が来るのを楽しみに、
ただ一人お前のためだけに生きて尽くしてきた。
今回だってお前のために、お前に早く良くなってもらいたくて、お前に食べさせたくて、
寒い中、裸足になって冷たい川の中に入り、素手でシジミを採ってきてくれた。
そうまでしてお前のことを思い、お前を慕い、
お前と結婚したがっている彼女の気持ちをお前は一体どう考えているのか。
お前が何に拘り迷っているのか全く分からないではないが、
もういいかげんにそういうものは吹っ切って彼女の気持ちに応えてやれ。
ここまで女性に尽くされてその気持ちに応えてやれないヤツは男ではないし、
自分はそのような息子を持った覚えはない・・・」


この話しをした時、親父は私に向かって本気で怒りそして泣きました。
そしてこの話しを親父から聞かされた私もまたその時大泣きに泣きました。
冬の最中、川に裸足で入り、お母さんと一緒にシジミを採っている彼女の姿が脳裏に浮んできて、
それが切ないほどいじらしくて私の胸を打ち私を泣かせたのです。


心の中で最後まで拘っていた何かが吹っ切れたのはその瞬間でした。
私は親父にその場ですぐ「病気が治ったら即彼女と結婚する」と答え、
その後見舞いにやってきた彼女にもそのように伝え、
退院して元気になったその年の5月に彼女との結婚式を上げました。


だから、私を彼女との結婚に踏み切らせた「背中からの最後の一押し」は
「寒シジミ」なのです。
親父っ子で親父が大好きだった私は、冬の季節、寒シジミの話題を見聞きするたびに、
あの時私にこの話しをしてくれた時の、今は故人となった親父の姿を懐かしく思い出します。


それではまた。
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