【コスモスー秋桜】



こんばんは。


この月曜日から火曜日に掛けて私は高知の病院へ出張でした。


師走にもかかわらず高知は南国だけあって暖かく、野原にはまだ

コスモスの花が咲いていました。


そのピンクや白や赤の花がそよ風に揺られている姿は余りに可憐でけなげで美しく、

思わず立ち止まって、しばらく見とれてしまいました。


私は、「コスモスー秋桜」の花そのものというより、さだまさしが

作詞作曲して山口百恵が歌ってその代表曲の1つとなった歌謡曲の

「コスモスー秋桜」について、鮮烈な思い出があります。


それは、私が鉄鋼会社(当時の日本鋼管。今のJFEスチール)在職中、

世界銀行のプロジェクトに従事するため、エジプトのアレキサンドリアに

赴任していた時のことでした。


昭和62年(1987年)のことですから、今からもう30年以上も前

のことになります。


国連傘下の世界銀行と日本政府とエジプト政府の3者が組み、

「世界銀行が1千億円にのぼる必要資金の半分を融資して、日本政府が

残り半分の資金を融資(円借款。いわゆるODAです)し、

エジプト政府が建設用地の提供とインフラ整備と建設後の原料輸入のための

必要外貨の割当をする」という役割分担でスタートした、

この世界銀行主導の大規模プロジェクトは、

「女王クレオパトラで有名なエジプトの、地中海に面した港湾都市アレキサンドリアの

近郊の砂漠に、近代的な一貫製鉄所を建設する」ことによって

①当時、社会主義国ながら、西側の資本と技術を導入して市場主義経済を

  導入しようとしていたエジプトを支援して西側に取り込むため

  (当時は東西冷戦の最中で、世界銀行を事実上牛耳る米国は、

  エジプトを西側に取り込もうとやっきでした)、西側の先進鉄鋼メーカーの

  技術で技術でエジプトに近代的な鉄鋼業を建設・育成する

②そのことにより、3000人のエジプト人の新規雇用を生み出す

③エジプトで必要とする鉄鋼製品を、エジプト国内で生産する

  ことによって、その輸入のために費やしている貴重な外貨

  (ドル)を節約する

④将来生産性が向上して生産量が増えれば、欧米諸国に輸出する

  ことで逆に外貨が稼げる

などの多面的な効果を狙ったものでした。


世界銀行が国連傘下の組織であることから、国連に加盟する全ての国・

地域から数十の企業や企業連合が参加して行われたこのプロジェクトの競争入札に、

日本鋼管を盟主として神戸製鋼及びトーメン(商社。現在の双日)の

3社で組んだ日本連合が応札し、勝って受注が決まったのが昭和58年(1983年)。


20年間のフルターンキー契約で、「製鉄所の建設から建設後の

製鉄所の経営や運営・操業の指導まで請負い、エジプト人自らの手で

製鉄所を経営・運営・操業していくことが出来るようになるまで、

教育指導してから引き渡す」というものでした。


そのために、建設及び建設後の教育指導のため、日本鋼管を中心に、

ピーク時には家族を含めて200人前後の日本人がアレキサンドリアの

地に渡りました。


私が赴任した頃には、既に立派な製鉄所が建設されていて操業が始まり、

日本人の役割も、経営から現場の操業に至る製鉄所運営のための

全ての仕事をエジプト人に教育指導する段階になっており、

派遣された日本人全員にはエジプト人のサブが1対1でついていて、

そのエジプト人のサブに近代的な製鉄所を運営していくための

ノウハウを伝授するのがその仕事でした。


もっともその中にあって私の仕事は、「そうして現地に赴任している

日本人職員とその家族が現地にあって働きやすいよう、

住みやすいよう、困らないよう、その面倒を物心両面にわたって見る」

というのが、私と同時期に赴任した日本人トップ(ゼネラルマネージャー)

から私に与えられた主なミッションでした。


そのため、色々なことを企画実施しましたが、中でも評判がよかった1つが

「エジプト国内はとバスツアー」でした。


製鉄所及び日本人の住む寮・社宅は、アレキサンドリアの中心街から車で

1時間ばかりの砂漠の中にあって、周囲に娯楽になるようなものが何もない。


アレキサンドリアに出かけようにも、その車もなかなか自由にならない。


娯楽の王様であるテレビは、(当然ですが)アラブ語ですから

チンプンカンプンで役に立たない。


自然、「寮社宅の共同スペースに用意されているカラオケやテニス

やプールでの水泳やお酒(禁酒の国ですから勿論闇で手に入れる

のですが)ぐらいしか楽しむものがない」ということになりますが、

そうした生活環境下にあっては、「そこで求められるのはまず娯楽」

ということになります。


他方エジプトといえば、過去5000年の歴史を誇る名所旧跡の宝庫で、

「世界中観光して回った旅行者が最後に訪れる」という地球の秘境でもあります。


エジプトと日本の貨幣価値の違いから、現地の物価は驚くほど安い

(日本の10分の1くらいでしょうか)上に、集団だとディスカウントが効いて更に安くなる・・・


というわけで、毎回数十人の希望者を募って、団体でエジプト各地の

名所旧跡をバスで訪れる「エジプトはとバスツアー」を毎月1回の頻度で

実施して、家族を含む日本人の皆とあちこちに出かけました。


最初は、ナイル川河口にあるロゼッタ(エジプトに遠征したフランスの

ナポレオンによって、古代エジプト文字解読の鍵になった有名な

ロゼッタストーンが発見されたところです)への日帰り旅行。


次に、エジプトの首都カイロのピラミッドとスフィンクスとスーク

(市場)への、これも日帰り旅行。


その次は、スエズ運河とイスマイリア(保養都市)・ポートサイド

(港湾都市)への1泊2日旅行。


そのまた次は、オアシス都市で有名なファユームへの1泊2日旅行。


更には、第二次大戦中、砂漠の狐と謳われたドイツのロンメル将軍と

英国のモントゴメリー将軍の間で激戦が交わされた有名なエルアラメインの

古戦場と、その近くにあるコバルトブルーの海と真っ白い砂浜が

美しい海岸リゾートへの1泊2日旅行。


カイロでのナイル川のナイトクルーズ。


ルクソールやアブシンベル等の各神殿や、王家の谷やハトシェプト葬祭殿などを巡り、

青ナイルでファルーカ(帆掛け舟)の川遊びをするアッパーエジプト(南部エジプト)2泊3日の旅・・・。


やがて、エジプト国内は行き尽くして、地中海を越えてヨーロッパ

にまで出かけましたが、「コスモスー秋桜」事件(?)が起きたのは、

「スエズ運河とイスマイリア・ポートサイドへの1泊2日旅行」に

行った帰りのバスの中でのことでした。


この旅行への参加者は30余名で、中には10人前後の奥さん達も

参加していました。


バス1台を借り切っての旅行で、スエズ運河からカイロを経て

アレキサンドリアへの帰路、バスに揺られること数時間。

もう夜も11時頃になり当然バスの外も、またバスの中も

(寝やすいように照明は落としていましたから)真っ暗。

その中で皆さん、疲れも出てうとうとされていました。


その時、バスのカセットデッキに、日本からもってきた山口百恵

のヒットメドレーのテープを誰かがセットし、エンジン音だけが

聞こえる静かで暗いバスの中に、山口百恵の歌が次から次へと

流れてきました。


「青い果実」「横須賀ストーリー」「イミテーションゴールド」

「いい日旅立ち」「乙女宮」などの耳慣れたなつかしい曲が

次から次へと流れて、やがてそれが

「薄紅のコスモスが秋の日の何気ない陽だまりで揺れている・・・」

から始まる「コスモス」に変わったとき、それは起こりました。


「コスモス」の曲に誘われてお母さんを思い出し、

遠い(当時成田からカイロまで日航機の南回り便で17時間かかりました)

日本へのホームシックにかられたものか、聞いていた奥さんのうちの1人が

啜り泣きを始めたのです。


1人の奥さんのすすり泣きはまた他の奥さんの啜り泣きを誘い、

それはやがて10人前後の奥さん全員に伝播して、

バスの中は奥さん方のすすり泣きの大合唱で溢れました。


啜り泣きは20分ほど続きやがて収まりましたが、遠い異国の、

それも発展途上国にあって、日常はけなげにさまざまな不便や

カルチャーショックに耐えて、夫君と子供さんの世話をしながら

毎日の生活を切り盛りしている奥さん達が、それでも常に心に

抱いている日本や両親への思いや心細さを垣間見たような気がして

心を打たれ、いつまでも私の記憶に残りました。


だから私はいつもコスモスを見るとその時のことを思い出します。


皆様はコスモスを見て何を思われるでしょうか。

それではまた。


       


    

<参考>貼付写真は「野原に咲くコスモス」×5 




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