【日本の冬ソナ】



いつもお世話になっております。


初冬の頃、いかがお過ごしでしょうか。


今日の横浜は晴天で、雪を目深にかぶった真っ白い、美しい富士山が良く見えました。

関東は地震が多いなど、住む上での問題が多々ありますがこういう時は、

「住んでいてよかった」と素直に思います。


さて、最近はコロナが落ち着いてきたせいでしょうか、

出張する機会が増えるなど、仕事の忙しさがコロナ前の状況に戻ってきました。


そういう状況下では、これまでのように、ゆっくりするということもままなりませんので、

暇をみつけてメールを書いて出したり、また受け取って読んだりするのが

今唯一つの気晴らしということになります。


そんな中、先週日曜日に、私の参加する勉強会の友人達に書き送ったメールの末尾に、

下記文章を「余談」として付け加えたところ、本文よりこの余談の方が好評で、

「感動した」とか「文学の薫りあふれる名文力作だ」とか

「日本の冬ソナだ」とか過分の評価をいただきました。


軽い気持ちで2時間ほどで書き上げたこの文章が、そんなに皆さんにウケたのは、

小説家志望の私にとって望外の喜びでしたが、年末を控えた今の時期に、

忙しくしておられるであろう他の皆様に少しでも、

娯楽なり気分転換なりになればと思い皆様にも配信致します。




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   日本の冬ソナ

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早いもので今年ももう師走です。

夏が終って9月になったと思ったら10月になり、10月になったら11月がすぐに来て、

やがて12月になってしまいました。

この分ではクリスマスと大晦日もすぐ来て、今年もあっと言う間に

暮れていきそうな気がします。


本当にこのところ時が異常に速く経つように感じられるようになりました。

これに対して子供の頃は1日が本当にゆっくりでした。


あの頃は世界中が光と未知なものであふれ、空や大地や風は輝き、

時間はもっとゆったりと流れていたような気がします。


今、時が早く過ぎるように感じるのは、人生の年輪を重ねて多くのことを

見聞き体験したために、その分世の中に未知なことが少なくなり、

新鮮さが薄れてきたせいなのでしょうか。


おかげさまで今は今なりに充実していますから昔に戻りたいとは思いませんが、

子供の頃のゆったりした時の流れやモノ皆新鮮に見えたあの頃の感覚を

取り戻せるものなら取り戻したいと思います。


所詮かなわぬことですが・・・・・。


今、夜の自宅でこれを書いています。


さて今日は何について書きましょうか。

そうですね。

以前、皆さんには私の自己紹介をしたことがあったと思いますので、

今回は、皆さんがご興味をもたれるかどうか分かりませんが、

私の女房について紹介がてら書いてみましょう。


そういえば今まで、私は女房について文章に書いてみたことが一度もありません。

私にとって女房とは空気のような、大切だけれどいてくれるのが当たり前の存在であって、

日頃はそう意識もせずに過ごしていますから、これまで客観的な考察の

対象足りえなかったのでしょう。


しかし一生に一度くらい、自分が女房のことをどう思っているのか、

どう思ってきたのかタナ卸ししてみるのもいいかもしれません。


ということで、今日は私の女房について自分の記憶を

たどりかつ自分の心を覗いてみます。

なお私はノロケているわけではありませんので念のため。


結構大真面目です。

まあ続けて読んでみてください。


ご興味がなければ読み飛ばしてください。


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私の女房は豊岡二美恵(以下「彼女」と書きます)。

前にもお話ししたことがあったかと思いますが、私と彼女は、

岡山県津山市草加部という市郊外の田舎にある成名小学校という

小さな公立小学校の同級生でした。


私の親父は小学校の教員でしたので、その転勤に連れられて

私も各地を転々としましたが、成名小学校へ転校したのがちょうど小学校1年の時。


よく晴れた青空の下、満開の桜の花が散る入学式の中で彼女に出会いました。


なにしろ田舎の小さな小学校のこととて1学年に1クラス34人しかなく、

同じメンバーのまま6年間持ち上がりでした。

ただ私は5年の3学期から津山市の中心部にある

他の小学校に転校しましたので、彼女とは4年と

2学期間同じクラスメートだったことになります。


小学校時代の彼女については彼女だけの特別な思い出と

いうものはありません。


男22人女12人の計34人と人数が少なくかつ同じ顔ぶれで

ずっと持ち上がりで一緒だったこともあり、

皆仲の良いクラスでしたが、彼女の方はいざ知らず、

当時の私にとって彼女は特別な存在ではなく、

仲の良いクラスメートの1人、幼なじみの1人という程度の

認識しかありませんでした。


人数が少ない割には、その小さなクラスの中には

ガキ大将とその腰巾着、金持ちのぼんぼん、秀才(私のことです)、

鄙にはまれな美少女、昔あったブーフーウーのウーのような頑張屋、

女形、不良(こういう表現も最近は聞かなくなりましたが)など、

それだけですぐ学園モノのストーリーが書けるくらいキャラクターが全部揃っていました。


しかしながら彼女はその中にあって、「私の周辺にいてよくおしゃべりをする女の子」でしたが、

特別皆の目を引くような図抜けた美少女でも才女でもなかったこともあり、

私にとってそんなに注意を引く特別の存在ではありませんでした。

 

正直なところ、彼女の小学校時代のランキングは、12人の女の子中、

スポーツで1位、学力で3位、容姿で

(なにしろ断トツ1位の美少女が他にいましたので)2~3位、

総合評価で3位というところでしょう。

私も22人の男子中、小学校4年までは

3位でしたが5年から1位にランクアップしました。


私が何かの折に「自分の女房は小学校1年の時の同級生です」と言うと、

「それはすごいですね」と、何か私達の間に

小学校1年の時にまで遡る劇的なラブストーリーを

期待される向きもあるのですが、事実はかくも散文的なものです。

 

ただ成名小学校では、毎学年毎学期毎に

男女1人づつ選挙で選ばれて学級委員になりましたが、

1年生から5年生までの5年間のうち、

私がランクアップした5年の時を除いて

4年間ずっと私と彼女でペアを組んでいたという意味では

「縁があった」と言えるかもしれません。


小学校時代の私はぼんやり「この広い世の中のどこかに

自分がやがて結婚することになる女の子がいる」と思ってはいましたが、

まさか自分のすぐそばにいる彼女がそうだとはその時には夢にも思っていませんでした。


1才で転校した後も、中学校・高校・大学と別の学校でしたので、

その後長く彼女とは離れ離れでして、再会したのは私が21才の時の夏です。


なんとなく成名小学校の同級会をやろうということになり、

私が幹事として草加部の元クラスメートの家を訪ねるのに

際してまず訪ねたのが、元学級委員でペアを組んでいた彼女の自宅でした。

そこで大学の夏休みで帰省して自宅にいた彼女と10年ぶりに再会しました。


その時の彼女は、顔かたちは昔の面影を残していましたが、

口数が少なく静かで控えめ、おとなしやかで慎ましい

はにかみ屋の女性になっていました。

これが本当に昔のあのうるさかったキャピキャピ娘なのかと

不思議に思ったものです。


彼女と2人で、暑い夏の日盛りの中を半日かけて、

草加部の元クラスメートの家をずっと回ったのですが、

その時彼女に「不思議なほど違和感が無い」と感じたことを

よく覚えています。

彼女と一緒にいるときは、全くと言ってよいほど気を

遣ったり構えたり無理をしたりする必要がないのです。

彼女もまた私に同じものを感じたようでした。

自然会話もはずみました。


自分が自然のままの状態でいて相手もまた自然なままでいる。


それまで私も多少恋愛のまねごとを経験してきましたが、

そういう女性と出会ったのは初めてのことでした。


小学校の時には、クラスメートだった美少女に関心を持ちました。

中学1年では友達の姉さんの知的で覇気のある美しさに惹かれました。

中学3年では一足先に成熟を開始したクラスメートが

無意識のうちに放つ色気、制服から時々チラッとこぼれ

る肌のみずみずしさに気を惹かれました。

高校2年では知性・美貌・色気と3拍子揃ったクラス

メートに出会い強く惹かれあこがれました。 


ただいずれの時も私の場合は、相手に自分の思いを伝え

て交際を申し込むということはできず、私の心の中だけ

の思い出にとどまりました。

私はいわゆる晩生(おくて)でしたから。


今から思い出してもどうしてそうだったのか信じられないくらい

当時の私は不器用かつ晩生でした。

 

当時の私にとって女性とはまったく神秘的で、

毎日チョコレートとミルクだけ飲んで生きている妖精のような

一種近づき難い存在でしたので、好きな女の子に声をかけるときには

不自然なほど動悸が高まって動作がぎこちなくなり、

ましてやその肩などに偶然手が触れた時など

には身体中に電流が走る思いがしました。

 

そんな状態の私に自然な感じでの女の子との付き合いなど

できるはずもなく、そんなとき友人が女の子とフランクに交際し話しているのを

見て本当にうらやましく感じたものです


それに加えて当時の私は女性に対して自分に今ひとつ

自信をもてないでいました。

 

スポーツや腕力はもちろん容貌や家の財産も平凡で、

真面目で勉強が少しできるということくらいしか取りえがない。

その勉強面での取りえも東大受験に失敗して、それまでの自信が

根拠のないものだったことが明白になり、

全くの自信喪失状態になりました。


そんな状態にあっては女性をリードすべき男性としての

役割は果たせず、充実した自然な感じでの男女交際など

望んでも果たせないことでした。

 

まず自分自身がこの世の中でどう生きていくのか、

その地歩を固め自信を回復するのが先決でした。


その後当然のことのように浪人生活に突入。

 

しかし私にとってそれから東大合格までの年月は、

小学生の頃からの自分の夢を実現し、自分に期待を

かけてくれている両親の願いに応えるためでもありましたが、

何よりもまず自分に自信と誇りを取り戻すための雌伏の期間でした。


その甲斐あって初志貫徹。

 

「自分もそう捨てたものではない。やればできる」

という自信が戻ってきました。

その結果、他の人や社会や何ごとに対しても臆することなく

卑下することなく対処することができるようになりました。

 

女性についても同じです。

 

ごく自然に交際することができるようになりました。

また惹かれる女性のタイプも少しずつ変わっていったような気がします。


それまで私はどちらかと言うと「自分と対等な自立心に富んだ知的な女性」

に惹かれていました。

しかし今の私の理想の女性像は「自分と相性の合う人。

無理をせず自然なままで一緒にいられる女性。

自分を頼ってくれ自分が保護してあげられる女性。

自分を複数の選択肢の中の1人ではなくこの世の中で唯一

絶対の人と理屈ではなく無条件に思ってくれるような女性」です。


私の求める女性のタイプが変化し始めたそんな移行期の

最初の頃に彼女と再会したのです。


彼女は「自立心に富んだ知的な女性」では全くありません。

 

バカではありませんが図抜けた才女でもありません。

ブスではありませんがミスコンテストは落選確実です。

キャリアウーマンではなく専業主婦志向でして、

自立心に乏しく、まるで昔の「幼くしては親に、

嫁しては夫に、老いては子供に従う」という女大学の

世界そのものの古風な価値観を持ち、「女の幸せは

好きな人と一緒になって、その人の世話をしてその人の子供を生み、

一生ともに暮らすことであって他にない」と信じ、

他の生き方を知らずまた興味を持ちません。


大阪の大学に行き、21歳という年齢でありながら

ずっと親の庇護の下で箱入り娘として育ったためか

世間の常識というものを知らず、全くの晩生のままで、

「男女が手をつなぐと子供ができる」と当時本当に信じていたぐらいです。

 

ですから久方ぶりに再会した私は最初「本当に世の中に

こんな小説に出てくるような古風で無垢な女性がいるものだろうか。

ひょっとして演技ではないか」

と疑ったものです。

しかし半日付き合っているうちに私は疑ったことを

恥じました。

それが正真正銘、彼女の真の姿であることが分かったからです。


「大変なはにかみや。かつ異性に対して全く消極的。

自ら話しかけるということなど女性としてハシタナイ

と考えて常に受身。問いかけられて初めて少し、

それも恐ろしく古風な丁寧語で答える」。

 

どうしてそうなったのかは分かりませんが、小学校時代の活発な女の子は、

今の日本ではほとんど絶滅したはずの、山本周五郎の世界に登場するような

言動も価値観も全く昔風の女性として私の前に姿を現したのです。


この草加部で再会し、半日間一緒に歩いた時に感じた

彼女との不思議なほどの相性の良さや古風な価値観は

私に強い印象を与えましたが、当時まだ私の新しい女性の理想像は

出来上がっておらず、それへの移行期で、私は前のタイプの女性と

交際していたこともあって、彼女と即付き合いを始める

ということにはなりませんでした。


ただその時からしばらくして、たまたま彼女と交わした年賀状が

きっかけとなって手紙を通じての幼なじみで

相性の合う異性の友人同士としての文通が始まり、

帰省のたびに彼女と会って話したりするようになったのは、

その時彼女から受けた印象が強かったからだと思います。


しかしまだその時には彼女に対する恋愛感情はなく、

自分になついてくる世間知らずの妹を兄貴として

守るような気持ちで接していました。

だから文通をするうちに自然に、彼女が私に対して

控えめながら強い好意を寄せていてくれていることが分かりましたが、

その好意は当時の私には正直迷惑でした。

私にとって彼女は妹なり幼なじみであって恋愛の

対象ではなかったからです。


彼女は、大学卒業後は就職せず津山で花嫁修業の

かたわら家庭教師や塾の講師などをしていました。

 

私が大学4年の正月に帰省して彼女に会った時に、

彼女が余りに「津山での毎日の生活は変化に乏しくてつまらない」

などと言うものですから、気の毒になって

「自分も就職が決まって東京生活は3月でおしまい。

そんなに毎日の生活がつまらないのなら気晴らしのため

少しは旅行でもしたらどうか。

3月までに東京見物に出てきたら自分が案内する。

女性専用のホテルもこちらで予約する」と言ったところ、

パッと彼女の顔が輝いて「きっと行く」と言います。

 

「それまで両親と一緒の時以外遠距離旅行などしたことがない」

と言っていただけに

「本当に出てくるのかな」

と思っていたら彼女は3月に本当に

1人で東京に出てきました。


私は東京駅で「田舎からのおのぼりさん」然とした

心細そうな彼女を出迎え、私を見つけた彼女は

子犬のように喜んで飛びついてきました。


予約したお茶の水のレディースホテルに案内して

チェックインさせ、荷物を預けて着替えをした

彼女を連れて「東京」を一番実感してもらうために

新宿西口の超高層ビル街に案内し、京王プラザホテル1階の

喫茶店に入って紅茶を注文しました。


その席で彼女は、(私も良く知っている)彼女の

お母さんから私に宛てた手紙を私に渡し、

その手紙には「二美恵(彼女の名前)は野に咲く竜胆(りんどう)の花。

清純だが無垢で世の中のことなど何も知らない田舎娘なので、

このたびの東京行きについては心配だったが、

本人が望んでいるし、また昔から良く知っている貴方がいるので

信頼して出すことにした。よろしく頼む」と

書かれていました。


その手紙を読みながら、また彼女とのこれまでの

来し方を思い出しながら、私は「竜胆の花とは

まさにこのかわいらしい人にふさわしい」と思いました。


そして運ばれてきた紅茶を飲みながら彼女と話しているうちに私は、

自分でも驚くほど自然な感じで

「婚約しよう。そして今の二人の気持ちが変わらな

かったら3年後に結婚しよう」とプロポーズしていました。


彼女は最初ビックリしたようでしたが、やがて見る

見るうちに目から大粒の涙をぼろぼろこぼしながら泣き出し、

それからコクリと頷きました。

 

浪人のため上京してから大学を卒業するまで、

私は東京で孤独な1人暮らしをしてきました。

そして寂しくて、両親や津山という土地がたまらなく懐かしくなると、

矢も楯もたまらなくなってその都度帰省していました。


「とても自分には東京暮らしは向かない。故郷の近くに戻ろう」

と思って津山に近い福山に製鉄所のある鉄鋼会社を就職先に選んだのです。


そのような故郷を遠く離れた、孤独な東京暮らしを

している私の前に、彼女は田舎くさいがしかし暖かい故郷

そのものといった感じで表れ、私は彼女の存在をたまらなく懐かしく、

かつ離れ難く好ましいものに感じました。


今の言葉で言えば「癒し」ということになるのでしょうか。


私は彼女と一緒にいると不思議とやすらぎ、心の中に

暖かいものが満ちてくるのを感じました。

他の同郷出身の女性には感じず、彼女だけに初めて

感じた感情でしたが、津山ではなく東京だったがゆえに

その思いは強烈でした。


それに加えて彼女との相性が不思議なほどいいことは

再会以来の付き合いで実証済みでした。


「何も拘る必要はない」と私は思いました。


「拘っているのは、自立した知的な女性を求めた過去の自分のみ。

しかしこれまで一度も幸福をもたらさなかったそんな過去の女性の

理想像に拘るより、今自分の目の前に座っていて、

自分に好意を持ち、かつ全面的に自分を信じ切っている可憐な、

そして不思議なほど相性の合う故郷そのものといった女性の方が

はるかに大切であり、そんな彼女とこれからの人生を共にしたい。

離してはいけない」と思いました。


そう思った途端、彼女に対する愛おしさがあふれるように

胸からこみ上げてきて、上記の彼女に対するプロポーズの

言葉となりました。


「3年後に結婚」と言ったのは、社会に出る寸前でまだ

世の中のことが右も左も分からない自分が社会人として

1人前になって家庭を構えるまでにはそれくらいかかる

だろうと考えたことと、つい寸前まで自分でも思ってい

なかったような気持ちに「ある日突然」なってしまった

ことに対して「これで良かった。間違いはない」と思う

ものの、心境の変化が余りに急激だっただけに、時間を

かけて自分の気持ちを確かめたいと思ったからです。


そのように理由を言うと彼女は「小学校で初めて貴方に

会ってから今まで、ずっと私は貴方が好きだった。

でも貴方にとって私はいいお友達であって

結婚の対象外だと貴方が思っているようで悲しかった。

しかし今その好きな貴方が私に好意を持ち

婚を考えてくれているということも分かった。

その貴方が結婚する気持ちになるまで待てと言われるなら何年でも待つ。

一生待ち続ける結果になっても私は後悔しない。

今までずっと待ち続けてきて待つことには慣れているし、

私には昔も今も貴方しかいない。その貴方の気持ちが

私の上にあることが分かった以上、待つことは

楽しみであり苦にならない」と言いました。


その日のうちに二人だけで婚約。

銀座の三越で安いメタリック製のリングを買い、

それに私のイニシャルを彫ってもらって彼女の指に嵌めました。


それから私は広島県福山市の製鉄所に赴任。


毎週末の彼女とのデートや二人の結婚への私の親の反対や

私自身の病気など色々なことがありましたが、約束の

言葉通り3年後に彼女と結婚。

仲人は小学校の担任の先生でした。


その後7年間の福山暮らしで男女2人の子供がうまれ、

更にその後はエジプト・アレキサンドリアに家族で赴任。

そこでも色々ありましたが、その後帰国して今度は横浜暮らし。

子供は完全にもう浜っ子になり、彼女も津山の田舎出身のくせに

「津山や福山などの田舎で暮らすのはイヤ」

などと平気で言うようになりました。


ところで20年ほど前に「冬のソナタ」という韓国ドラマが大ブームになり、

私もテレビで見てこれに嵌ってしまいました。


そのドラマの中のチュンサン(ペ・ヨンジュン)とユジン(チェ・ジウ)の

高校時代からの波乱に富んだ10余年間のストーリー展開を追いながら、

私が彼女に「普通ではありえないようなドラスチックなストーリーと二人の間で

展開される数々のエピソードが、ありえないだけにそれだけ、

それにあこがれる女性達の心を捉えて今大評判だと言うけれど

君もそういうストーリーにあこがれる?うらやましいと思う?」と聞くと、

彼女は「全然うらやましくなんかない。

私達の方がずっと劇的で長くてエピソードも豊富。

冬ソナなど私達の足下にも及ばない」と言います。


私にとってはそれは何ものにも代えがたい最高の褒め言葉であり、

私なりに頷けるのですが、彼女はこうもいいます。


「ヨンさまより何倍も貴方の方が素敵」と。


そこまで言われると言葉の信憑性に「?」が付きますが

「まあ良し」としましょう。


何しろその後で彼女がこう続けるのですから。


「だから死ぬまで一緒。死んでもあの世に行っても生まれ変わっても

ずっと一緒でいてください」と。

 

すみません。

真面目に展開してきた話が最後になってやっぱりノロケ

になってしまいました。


おあとが宜しいようで。


それではまた。

 



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